聖書は古代ヘブライ語→ラテン語→?→日本語と翻訳され続けたので、表現に正確さやニュアンスが変性した可能性があるかも知れません。
しかし、聖書に書かれたことが全て真実の歴史的証拠として、現代風に解釈すると、聖書が意外な光景を見せてくれます。
旧約聖書・創世記から神の真実のお姿を想像します。
【 初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 】
聖書の冒頭の言葉をそのまま信じれば、
神の霊は、混沌の闇の中、水面にうごめく存在であったのです。神が天地を創造したにもかかわらず、神は天空を飛翔する存在ではなく、水辺に漂う存在だったのです。私の正直な印象からすると、原初の世界の巨大なアメーバをイメージしてしまいます。
旧約聖書では、これからも神の具体的な姿かたちは出てきません。ガブリエルなどの大天使が神の使いとして具体的な姿で出てきますが、神のお姿は輝く光としてしか出てきません。
神は無形の存在で意識と光の集合体として解釈されています。また、神は光を造ったのには間違いありませんが、もともとは闇の中で生きる闇の存在とも推察できます。
さて、では闇の中の存在の神が、なぜ光を造ったのでしょう。意味もなく光を造ったとは思えません。光を造らなければならない訳があった筈です。理由を考えてみましょう。
闇の水面を這っている表現からすると、神は一定のスペースを占拠する存在であることが分かります。すると、他にも多数の意識の存在があると考えるのが自然です。天地を創造できる能力を有する存在とすると、空間も素粒子も時間も想像したことになります。今から考えると超科学でしょう。ある一つの秀でた意識の存在が光子(フォトン)を素粒子から作り、他の意識を圧倒し、優位に立ちたかったと思われます。
このように考えれば、闇の天使(堕天使)といわれたルシファこと「サタン」が神に反乱を起こす理由が見えてきます。造物主である神とその僕(しもべ)である天使を考えれば、神は圧倒的優位の存在です。なのに、堕天使のサタンが身分をわきまえずに、神に戦いを挑むとは、よっぽどの勝算がない限り考えもできないでしょう。
神と天使の間には、もともと圧倒的な優位差はないのでしょう。恐らく、神も天使も始めの内は闇の水面に漂う同じ意識の存在で、同列だったのでしょう。ある時、光を造った意識の存在が圧倒的な力を得て「神」になり、その他の意識の存在が、その配下の天使になったと考えるとスジが通ります。光子のノウハウを我が物に出来れば、堕天使サタンも神になれると考えて、光の将軍大天使ガブリエル(本当はサタンと双子の兄弟)率いる神の軍団に、しつこく戦いを挑んでいるのです。
恐らくは闇の存在であった聖書の神(YHWH・ヤハウエ・ヤーウェ・エホバ)が光の神になったために、どうしても軍門に下りたくなかったサタンが、闇の世界にそのまま居座ったと解釈したほうが分かりやすいでしょう。
この世界は闇が本来の姿であって、光は一時的な姿でしかないと考えられます。なぜなら、神が密かに無理をして光を造り、昼と夜を分けたということは、考えようによっては、どうしても夜を消すことが出来ない、神にも光を永遠に持続させることが出来ないということです。ここで、全能といわれた神の能力に限界があることが証明できます。
大天使ガブリエル 
同じ創世記に次のことが記載されています。
エデンの園でアダムはヘビの口車に乗せられたイヴによって禁断の実(善悪の実)を食べ、知恵を獲得してしまい、神の怒りに触れエデンの園から「エデンの東へ」追放されてしまいます。
知恵はイコール理性です。しかし神はこの時点で善悪の知ることを善しとしませんでした。人間が理性的であることを善しとしない、すなわち獣のように無知で本能のままの戦闘的な人間を好んだと思われます。
現在のイスラエル・パレスチナの血なまぐさい争いは、現代の私たちから見ると、善悪の判断のできない、理性とは程遠い愚行です。しかしこれは、聖書から見え隠れする神の考えからすると、神が望んだ形なのかも知れません。
聖書に書かれているエデンの園は、水の豊富なオアシスのイメージがします。そしてエデンの園には滾々と湧き出る泉があり、世界中に散らばる河川の源泉という記載が聖書にのっています。
また、天地創造の冒頭での神のイメージ(神の霊が水の面を動いていた)からも、神ヤハウエは水にかかわっています。
モーゼが行う十戒の奇跡も水にかかわる奇跡です。モーゼがナイル川に彼の杖を触れると、ナイル川は血の色に染まり悪臭を放ち魚は全て死に絶えてしまいました。出エジプト後、海の前で彼が杖をかざすと、海は二つに割れ海底が露出し、ユダヤの民は海を渡ることが出来ました。モーゼ自信もナイル川に流された捨て子という設定になっています。
砂漠の流浪の民であったユダヤの民にとって神様はやはり「水の神」様でなければならないのでしょう。
エデンの園 
【参考】 メソポタミア文明で有名なシュメール人は、多神教を崇拝していました。その中で主力の3人の神様が存在しています。海の水の神様・川の水の神様・雲の水の神様の3人(3柱)です。やはり水に深く関連した神様です。シュメール人の影響を強く受けたヘブライ人は同じく多神教でしたが、ヘブライ人のモーゼが興したと思われるユダヤ教は、多くの神様の中から唯一水の神様だけを崇拝するようになったと思われます。
【注】 このエッセイは、聖書を基にした私のフィクションです。
決して神や聖書を冒涜するつもりはありません。
ただ、聖書は様々な人種・国・言語の異なる人々に読まれ解釈される訳ですから、様々な解釈があると全能の神ご自身もあらかじめご理解・納得している筈です。