私はそれ程優秀な学生ではありませんでした。大学の成績は恥ずかしながら下から三分の一程度でした。国家試験に恐怖を感じていました。しかし、どういう訳か国家試験は8割以上の点数が獲得出来ました。国家試験は、当時は6割獲得できれば合格するのですが、私よりも成績の良い同級生がギリギリだったり、不合格になってしまった人がいました。
入局した泌尿器科教室は、私一人しか入局しませんでした。一年上の研修医は七人、下の学年の研修医も七人でした。私はたった一人の研修医だったのです(笑)。当然ながら忙しくて、相談する同級生もいなく本当に大変だったのです。先輩からバカにされたり怒られたりしましたが、次第に自信が持てるようになりました。良かった❣️❗️
当時の研修医の給料は、毎月一万五千円程度でしたから、一生懸命にアルバイトをしました。当直病院を何軒も掛け持ちで行いました。すると、総額が毎月40万円〜50万円も稼げたのです。嬉しい!
大学六年生から研修医にかけて結婚を前提で交際していた同級生の女医さんがいました。ある日、ホテルオークラで食事に呼ばれたことがありました。その時に何と振られたのです。両親が反対したからと言う理由でした。当日も翌日も考えて欲しいとお願いしましたが、ダメだったのです。仕方がなく鬱っぽくなりました。医局で、それを見ていた教授が「どうしたんだ?」と言われて、訳を話をしました。すると、教授がメシでも食べに行こうと慰めてくれたのです。…今でも感謝しています。
それから2年ほどしたら、振った彼女から、突然、結婚を前庭に再度交際をしようと言われたのです。ビックリです。だって両親が反対したのに…。実は研修医の際に、数年の先輩たちはとても優秀だと思えたのですが、それに較べて婚約した研修医の私が大したことが無いと思ってしまったのです。それから数年経つと、先輩達が大したことが無い医師と分かったのです。それと比較して泌尿器科で走り回っていた私を時々見て後悔したのでした。
5年先輩の指導の先生に、その話しをしたら、「男として絶対に拒否しろ!」と言われました。確かに、結婚すると将来的にこの出来事が気になり、離婚するだろうなと思ったので、丁重にお断りしました。
お陰で、妻と出会えて結婚でき、今の人生があるのでしょう。結婚した直後に静岡県の富士市立中央病院に派遣されました。おそらく2年後に栃木県の関連病院に派遣される可能性があり、妻が早く東京に戻りたいと希望したのです。
そこで当直アルバイトで勤務していた横浜の磯子中央病院に交渉したら、当時の院長が容易にOKしてくれたのです。そこで、大学の教授に退職をお願いしたら、これまた容易に許可され、大学病院泌尿器科退職後に救急病院に勤めることになりました。おかげで外科認定医と消化器外科認定医とスポーツドクターになったのです。
3年間ほど救急医を務めた後に開業医になりました。救急病院のある指導医が、院長を脅迫して金を手に入れるために、私たち部下に「この病院が裁判で告訴されるから早めに退職した方が良い」と嘘を言ったのです。それをキッカケに開業することに決めたのです。その後、この指導医は脅迫罪として警察に逮捕され、ニュースや週刊誌にも出ました。懲役2年執行猶予3年となったのです。
当初は、総合診療として開業しました。胃カメラ、骨折の治療などいろいろ行いました。次第にリハビリの患者さんが多く、毎日150人も患者さんがおい出になりました。しかし泌尿器科専門医である私が再び泌尿器科の治療をやりたくなりました。私の指導者であった三木誠先生が、前立腺肥大症の温熱治療器を開発されたので、購入して治療を始めました。しかし100%治る訳ではないので、内視鏡手術を仕方なく始めたのです。すると、全国から泌尿器科の様々な病気の患者さんが多く訪れるようになり、病気の原因について深く考えるようになったのです。

すると代替医療の企業が私を含め4人の医師を心身医学臨床研究会の理事メンバーにしたのです。「代替医療の名医百人」と言う本に、私が選ばれたからでしょう。テレピによく出演する川島朗先生、水上治先生、藤沼秀光先生、無名の私でした。4人で頻繁に会議をして講演会を何回も公開しました。現在は休止中ですが、とても楽しかったです。(笑)
休止後も、この3人の有名医師から、泌尿器科の病気の患者さんを何人か紹介されました。