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千日回峰行

Img_0425比叡山延暦寺の修行で千日回峰行という荒業があります。
❶1年〜3年目は30km100日
❷4年〜5年目は30km200日
❸堂入りという明王堂に9日間こもり、断食、断水、不眠、不臥、不動真言を10万回唱えなければなりません。
❹6年目は60km100日
❺7年目は前半83km100日
❻後半は30km100日
以上を歩き続ける荒業の修行です。
この修行を完遂すると、生き仏、不動明王と崇められるのです。
しかし、この修行では、悟りを得られことはないと私は思います。もちろん反論はたくさんあると思います。
Img_0426お釈迦さまは、難行苦行の末、「修行では悟りは得られない!」と仰っています。お釈迦さまは、嘘は言ってはいけないという信念をお持ちです。インド人ですから、こうと決めたことは絶対に譲りません。ですから、例え千日回峰行であっても、不動明王にはなれても、悟りを開いた生き仏にはならないはずです。修行による精神的、肉体的過負荷は、精神的、肉体的に強固になれても、悟りの境地には達しないはずです。開祖のお釈迦さまが、そのように決めたにもかかわらず、日本のお坊さんは、何故修行するのでしょうか。お釈迦さまの仰せになった言葉を後の世の人々が都合よく解釈したのでしょうか?

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コメント

先生がおっしゃるように修行では一切何も得られませんし悟りもありません。
このことは2500年前に釈迦が言っています。
このことはずいぶん昔に老師に言われたことです。
ただ座禅をしていると時間と空間の認識が変わってきます。
時間というのはエネルギーなのか物質なのか、それとも空間と共生した反物質なのか、相対性理論の中に納まるのかよくわかりません。
一度だけ時間と空間が交差した経験があります。
ごく普通の気分のいい日に自宅の前の道がモノクロとカラーで二つ見えたのです。
一瞬でしたが、一つは明らかに私の生まれるよりずっと前の道に思えました。
道幅は同じなのですが、たたずまいが違うのです。
その時にひょっとしたら現実は幻かもしれないと思いました。時間にして数秒の経験でした。

投稿: 京都在住 | 2017/09/26 08:36

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