適応・順応
食卓で家族団らんの会話の中で気づかされることがありました。
妻と長女は幼稚園から大学まで一貫校出身で、長男は小学校から大学までの一貫校です。クラス会や学年会やクラブOB・OG会を頻繁に参加しています。私は比較してそんなにありません。どうしてかな?と思っていたら、自分の進学環境の結果だろうと思いました。
小学校の同窓会で認識したことですが、例えば、永田町小学校の同級生のかなりの数の生徒が、永田町幼稚園の卒園者でした。ですから、みんな小さいころから顔見知りで、私のように小学校3年生の時に転校生で入った人間にとっては、なんとなく部外者という雰囲気がありました。当然、その環境の中で、必死に適応・順応しようとする自分がいました。
そういえば、板橋から新宿区高田馬場に引っ越しし、その直後に高田馬場の戸塚第三小学校の1年生になりました。その際にも、同級生は地元の戸塚第三幼稚園の卒園者がほとんどでした。同級生には、今思えば、何となく疎外感がありました。当然、適応・順応していったのです。
永田町小学校から、ほとんどの生徒が麹町中学校に進学しました。この中学は、永田町小学校、番町小学校、麹町小学校の進学する中学でしたかから、みんな同じ境遇でした。中学の初めての英語の授業で、教科書を読みながら、アルファベットの文字をみんな声を出して流ちょうに読み上げるのです。ローマ字は小学校の頃に勉強しましたが、「This is a pen」をどうして「ディス イズ ア ペン」と読めるのか納得がいきませんでした。今まで習ったローマ字読みだったら、こんな読み方はできない筈です。
しかし、ローマ字を習得すれば英語は読めるのが常識で、自分には、その応用力がないに違いないと落ち込みました。でもよく考えてみれば、生徒のほとんどが事前に英語の学習をしていたのでしょう。ここでも疎外感を感じました。
受験勉強は失敗し、滑り止めの海城高校に進学しました。中学の同級生は、慶応高校や早稲田高等学院や都立高校に進学したのに、置いて行かれてしまったという気持ちがいつまでもありました。しかし、いつまでもこだわっていても仕方がりません。そこで急に勉学に励むようになりました。そいて2年間の浪人生活を過ごして、医科大学に入学しました。同級生は、現役生もいれば、5浪せいもいれば、大学卒業生もいれば、社会人も混在した学年でしたから、容易に適応・順応できました。
大学生活は順調で留年もせずに卒業し、国家試験も無事に合格して晴れて医師になりました。ところが、大学の泌尿器科に入局してみたら、研修医は私一人でした。
上の学年の二年目の研修医は七人もいるのに、一年生は私ひとりです。またこの境遇かと、さすがに慣れました。直ぐに適応・順応しました。
研修し、知識と技術を身に付けましたが、私は大学に残り、講師、助教授、教授と出世する気持ちはサラサラなかったので、8年で大学を退職しました。そして、当直アルバイトをしていた救急病院の勤務医に転職しました。
転職した先の救急病院は個人病院で、様々な大学出身者の混成部隊でした。千葉大学、東京大学、横浜市大、帝京大、東京医科歯科大、信州大、慈恵医大などです。このような境遇には、水を得た魚のように気分でした。
3年ほど救急病院で勤務後、今の地で開業しました。当然医師会に入りました。医師会は、それこそ様々な大学出身者のオンパレードでした。
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