将来の自分
高校生の頃、進路を決めることに、あれこれと悩みました。
自分の想像出来る職業が医師しかなかったので、最終的には医学部を受験しました。
しかし、当時の私の実力では無理だったのでしょう、二年も浪人しました。浪人中は病院の廊下を白衣を着て忙しく走っている姿を想像しながら勉学に励みました。
医科大学に入学後、勉強に実験に試験にクラブ活動に忙しくしている内に、すんなりと卒業し、国家試験に無事パスして医師になりました。
医師になってからは、臨床実地の経験と手術手技の習得と学会発表のデータ集めに奔走し、大学病院の安い給料では生活できないので、土日当直や夜間当直のアルバイトを月に10泊ほどして忙しくしていました。自分の将来像を想像できませんでした。
しかし、大学病院に残ってしのぎを削り、講師、助教授、准教授、教授、主任教授と出世する気持ちもありませんし、派遣病院の診療部長になって定年まで勤める自分を想像できまでんでした。つまり将来の自分を想像出来なっかたのです。もともと開業医になろうと思っていましたから、自分の知識と経験を積むために、大学病院を辞め救急病院に転職したのです。
この転職は成功しましした。泌尿器科に限らず、腹部外科、胸部外科、整形外科、内科と勉強でき、今の自信につながりました。そして総合診療科の開業医として将来が見えたので開業医に転じ、現在の私があるのです。
開業医となり順調に診療ができるようになると、診察内容が次第に変化していきました。はじめの頃は、胃カメラや胃のレントゲン、大腸造影など一般内科医として積極的に診療していきましたが、次第に整形外科の患者さんが増え、一時期は8割の患者さんが整形外科のリハビリ患者さんでした。1日150人くらいの患者さんが押し寄せていました。将来の自分は、リハビリの機器を数多く購入し、毎日たくさんの患者さんを診ているだろうと思っていました。
ところが、医療費削減のため国の政策により、再診料の制限や患者さんの支払い料金の値上げなどで、患者さんの来院数の激減で、全国の整形外科は大打撃を被りました。私のクリニックも同じでした。整形外科としての将来は見えなくなりました。
しばらく模索しているうちに、本来の私の専門である泌尿器科に軸足を置きたくなりました。ちょうど、その頃、私の恩師が前立腺肥大症の高温度治療器をオリンパスと共同で開発しました。日帰りで前立腺肥大症の治療が出来るようになったのです。早速導入し治療を開始しました。しかし、その治療器にも限界があり、内視鏡手術を手掛けるようになりました。すると、評判が評判を呼んで、泌尿器科の患者さんが外来患者の多くを占めるようになりました。自分の将来像が見えたように思いましたが、私のこの病気で将来像は不確実になりました。
人生のいろいろな時点で、自分の将来を想い描き、今日まで過ごして来ました。18歳の自分が64歳の今の自分を観ることが出来たなら、今の自分の姿や立場が終着駅だと思うでしょう。しかし、今現在の自分は、将来何者になるのだろう?と未だに思っています。ある意味で強欲です。おそらく、死ぬまで想い描き続けるでしょう。
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