アラジンと魔人ジニー
アラジンと魔法のランプをご存知でしょう。
鼻つまみ者のチンピラのアラジンが、魔法のランプの精である魔人ジニーによって、一目惚れした王女様と結婚し王様になるというファンタジーです。
魔法のランプの魔人ジニーは、ランプの持ち主であるアラジンの願いを3つ叶えてハッピーエンドというお話です。アラジンをのび太君に、ジニーをドラえもんに例えることができます。
非現実的なおとぎ話ですが、人生を振り返ってみると身近にジニーもドラえもんが存在することに気づきます。
私の大学の同級生で倉内先生がそうでした。
倉内先生とは、大学の5年生の時に仲良くなりました。私が大学学園祭の実行委員長にされそうになった時に、私は固辞したため、代わりに倉内先生が実行委員長になりました。申し訳なかったので、私は学園祭の会計になったのが縁で親友になりました。
彼は私と違い外交的で男女へだてなく友人になれる個性の持ち主でした。そんな個性が医師になってからも、お爺さん、お婆さんに気に入られて、患者さんとのコミニケーションが秀逸でした。同級生とはいえ、見習うべき個性でした。手術も上手く同級生とは思えない滑らかな手さばきでした。彼が紹介してくれたのが、今の私の奥さんです。
鹿児島で開業してからは、当初は患者さんがなかなか増えないと電話でぼやいていましたが、1年もすると順調に患者さんは増え、毎月20人以上の前立腺肥大症の手術をこなすまでになり、九州で断トツの開業医になりました。しかし、8年前に脳出血で他界してしまいました。私の3つの願いを叶えて消えていったジニーのようでした。ドラえもんのいなくなったのび太君のように、私はとても悲しみました。彼の東京と鹿児島での2回の披露宴に出席し、彼の葬儀にも出席しました。
二人目のジニーは、東大出身の内科医の山川先生です。
彼とは、私が救急病院の勤務医時代に同僚となりました。
病気に対する考え方が明快で、彼の発言からは患者さんを不安にさせない信頼感を勉強しました。一番の収穫は、超音波エコー検査のコツを学んだことです。彼の的確な助言のお蔭で、超音波エコー検査に関しては、どんな泌尿器科医にも負けない自信を得ました。
彼は資産家のおじさんの関係で腎臓移植普及会の理事長でしたが、その立場を足掛かりにして、東大出身の強みと厚労省を動かし、日本の臓器移植ネットワークを立ち上げ、初代の理事長になりました。有名教授や有名大学がネットワークのセンターになろうと、ドロドロの魑魅魍魎の中で、それらを一掃し、中立の立場の公的機関を確立し、臓器移植ネットワークが軌道に乗ったところで、あっさりと理事長を退きました。その後、大企業の健康管理センター所長となり、日本中で講演していました。しかし、58歳の若さで心臓発作で他界されました。とても残念なです。【三回忌の遺影】
三人目のジニーが一番強力の魔法を持っています。
魔人ではなく、魔女です。実は私の奥さんです。
奥さんとの出会いは、お互いに良い印象ではありませんでした。しかし、数年後に一番目のジニーである友人の倉内先生の積極的な紹介に、お互いにしぶしぶお付き合いを始めました。彼女はお嬢様育ちで、私はお嬢様が嫌いでした。逆に彼女は、スポーツマンでイケメン(当時、彼女は郷ひろみと西條秀樹が好きでした)が好みで、私はといえば、179㎝体重は90㎏の一見内向的なシロクマでした。しかし、お嬢様が嫌いという私の感性にカチンと来たのか、彼女の攻勢が始まりました。
結局、いろいろあって二人は結婚しました。彼女は子供は嫌いでしたが、一姫二太郎の二人ももうけてくれました。そして二人の子供を育て上げて、やっと二人で旅行をと思っていた矢先に、私が慢性腎不全になり、旅行どころではなくなりました。
大学勤務医の時に、うだつが上がらない私に大学を退職するきっかけを作ったのも彼女です。救急病院の勤務医から、開業医になるように背中を押してくれたのも彼女です。土地も資産もない私に土地を提供し、さらにその土地を担保に借金をしてくれたのが彼女の父です。その土地で、彼女の祖父が耳鼻科を開業していた縁で、地元の医師会には円滑に会員になりました。今私があるのは、すべて奥さんにパワーです。
結婚当初は、私がボストンバックを片手に消えていく夢を時々見たそうです。最近では、あの世に行った私が彼女を待っている夢見るまでになりました。
慢性腎不全になり治療法の選択を吟味していた時のことです。血液透析と腹膜透析と腎臓移植があると話が出たら、その話を聞いていた奥さんと娘が間髪入れずに「私の腎臓を一つ上げる!」と口をそろえて訴えるのです。「おいおい!冗談じゃない!一人の人間の命は自己完結が理想だよ!他人の命をもらってまで生きる必要はない!」と私は怒りました。本人たちはふてくされていましたが、『どこまで私に奉仕すれば気が済むんだい?』『娘の体を傷つけてまで生きながらえたくない!』と思いました。でも二人の気持ちに感謝しました。
4人目のジニーは複数存在します。病気で悩まれ来院される患者さん全てです。特に「異常なし」「気のせい」「原因不明」「治らない」と診断され、ドクターショッピングされる患者さんの難問奇問は、私の診断能力・治療のクオリティを無理にでも上げてくれます。
5人目のジニーは私自身です。結果の見えない希望のない多くの患者さんに、まるで魔法のように診断し治療できるように、ジニーやドラえもんになるべく精進しています。
【備考】
倉内先生は小学生の時には神童と呼ばれ、習字で郵政大臣賞を賞されました。本当に優秀で鹿児島ラサールに簡単に入学しました。
山川先生は現役で慶応大学医学部に入りましたが、東大系の親戚に嫌味を言われて、東大に次の年に入りました。東大教養課程での成績は平均98点で、未だ破られていないそうです。
私の奥さんは、教授秘書でした。ですから教室員はみな彼女のことを知っていて、どこかの御曹司と結婚するものと思っていました。平の医局員である私と結婚が決まった時に、「本当に高橋でいいの?」と他の医局員に言われたそうです。
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コメント
私にとってドラえもんは、進駐軍です。
父親が米軍との取引をしていたので、いつも米軍基地やGHQの支所に出入りしていました。
当時日本には物が何もない時代でした。
米軍基地に行くとなんでも豊富に溢れかえっていました。
アイスクリームも山のようなサンドウィッチもチョコレートもインスタントのヌードルもありました。
日本と比べて天国のようなところでした。
ポケットから魔法の様になんでも出てくるように思いました。
アメリカとはどんな国だろうと子供のころから夢見ていました。叔父も叔母もアメリカに戦前から住んでいたので、大学時代にアメリカを長い時間をかけて放浪しました。
1970年のことでしたので、カルチャーショックを強く受けました。
よくこんな国と戦争が出来たものだと強く感じました。
投稿: 京都在住 | 2016/05/09 20:18
私にもジーニーが存在します。今もなお、深刻な問題を短期間で必ず解決するという、奇跡のひとです。胡散臭いことをするのではなく、とてもシンプルに、ただ当たり前のことを当たり前にやっていくのですが、私たちは当たり前のことができなくていつも苦悩しています。彼はこの16年間、事件を未然に防ぎ、たくさんの家庭の幸せを取り戻し続けています。
投稿: カボスワイン | 2016/05/10 20:00
私は偏狭な政治的思考は持ちあわせていませんが、常々高橋先生は明治の気骨ならぬ平成の日本男児だな、と尊敬の念を抱いております。
かのアインシュタインが「………日本という国を残しておいてくれた事を神に感謝する」と日本訪問の後記しています。
それは日本人の精神性を意味してると私は解釈しています。
高橋先生に素晴らしい方達との出会いがあり、そして私は高橋先生に出会いました。
私としては「高橋先生が日本人医師であることを神に感謝する」です。(笑)
この病気になった事は私にとって残念な事ですが、正の副作用(副産物?)として先生との出会いが有ります。
神の導きだったのでしょう。
修行が足りん!とお叱りを受けようです。
投稿: 31356 | 2016/05/13 00:26