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第50噺 (145噺中) 「医は仁術」

医師になる以前から「医は仁術」という言葉を耳にした事がありました。歴史的には江戸時代から頻繁に使用されている言葉です。しかし、この意味を本当に理解し実践している医師がどれだけ存在するでしょうか?単に優しいだけの医師を「医は仁術」を実践している医師と誤解されているように思われます。「仁」の言葉の定義が歴史的にも曖昧で、本質のない「仁術」がイメージとして先行しているのが今の風潮です。

Jin「仁」を広辞苑で調べると、『いつくしみ、思いやり、特に、孔子が提唱した道徳観念、礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。』と解説しています。
有名な漢字学者である白川静氏の字統によると、「仁」は、親しむ・慈しむ・恵むという意味です。

Jin2本来は、敷物に人を座らせた象形文字で、元の意味は見える形で人を持て成す意味であったのが、次第に精神性の意味合いが色濃くなり、親しむ・慈しむという意味に変化したのでしょう。

しかし、孔子はすでに存在していたこの「仁」という言葉に、特別な価値を与えました。それは表面的な優しさではなく、もっと哲学的な深い意味を加えたのです。そして孔子の弟子たちに様々な表現方法をもって解説していますが、論語を読んでも凡人には容易に理解できません。なぜなら予想以上に大きな意味を包含しているからです。孔子の言動から推理すると、「仁」とは、人間の持つべき最高の「徳」であり、是も非も全て受け入れる大きな気持であり、その根底に見返りや代償を求めない気持ちが存在します。拝金主義の漢民族にとって、見返りを求めない気持ちはあくまでも理想であって、単なる絵空事にしか過ぎなかったのでしょう。

「仁」を具体的な言葉であえて表現すると、他人の精神的・肉体的・経済的・社会的不利益を回避あるいは救済するために、身を挺して奔走することです。その人を助けるために、まるで自分のことのように、それでいて客観的に冷静に周囲の状況を適確に把握し、損得抜きで、優しく声を掛け、励まし、奮い立たせ、悲しみ、慰め、時には叱る気持ちの全てです。

日本語で「いい人」が「仁徳」にあふれた人を意味します。ところが外国に「いい人」という言葉は存在しません。人間として、日本人としては当たり前のこの気持ちは、当時の漢民族にとっては当たり前ではなかったのでしょう。今も昔も漢民族は中華思想があり、自分が一番、他人は兎も角、自分さえよければ良い、そして何事にも十分な金銭的代償がなければ動きません。自分の無理を通すためには、不合理な事も道理として説き、黒を白と言える人種です。損得勘定で他人と接しますから、「仁」という気持ちとは程遠い国民性です。
そのようなお国柄ですから、安定した政権が継続できる訳もなく、現世を憂う孔子のような偉大な知識人が多く排出したのです。漢民族の為に考案された「仁」という考え方は、結局中国には根付かず、周囲のアジア諸国に浸透し、遂には日本で根付いて熟成し完成したのでしょう。日本人の国民性が「仁」を受け入れる素質が十分にあったと考えるべきでしょう。

その昔、医師を志す者は師匠に弟子入りし、使用人のようにまるで丁稚奉公をしながら医業を身につけました。そのような時代・環境ですから自然と「仁徳」も身につき、「医は仁術」を容易に実践できたでしょう。ところが現代日本で医師になるためには、幼少の頃から他人より学業において優秀で、受験というレースで常に勝ち残った者しか得られない資格です。国家試験こそ単なる資格試験ですが、大学に入るまでは受験という戦いの連続です。競争社会の中で勝ち抜いてきたあるいは生き残ってきた戦士・ソルジャーです。そのようなインテリ・ソルジャー集団に他人を思う「仁徳」を求め、「医は仁術」を理解させるのは至難の業です。それまでの自分たちを培ってきた人生観を完全否定するような大きな考え方の転換が必要になります。知識として習得できるものではありません。病気や入院を体験し、挫折などによる劣等感と克己を経験してこそ「仁」は体得できるのでしょう。

インテリ・ソルジャー集団に心の底から「仁」を実践するのは難しいことは容易に理解できるでしょう。「術」という言葉は習得すれば誰にでも出来るテクニックであって、「道」のように到達不可能な極みや精神性を追求するものではありません。テクニックを習得することはお手のモノの集団ですから、「仁術」をテクニックとして習得してもらえばよいのです。まるで公式を覚えるように・・・。

Kosi2孔子は身分のいやしい出身でした。一説によると、軍人の父と妾の巫女である母との間に生まれた子どもでした。才能と実力だけで名声を獲得したのですが、一定の身分になると、それ以上にはならないことが段々分かりました。本来の身分とコネと金がモノを言う権力の世界では「礼」だけでは通用しないことが理解できたのでしょう。苦労をした孔子だからこそ、心の底から「仁」の重要性を強く感じたのでしょう。孔子の教えるインテリ・エリートたちにも、「礼」という外見的な作法・様式を介して「仁」の境地に誰でも到達できるようにと思っていたのに違いありません。そういう意味で、孔子もまた「仁術」の「術」、つまりテクニックを極めようとしていたのかも知れません。

いつもニコニコしていて患者さんにとても優しく、患者さんの希望をすべて叶えてあげる、それでいて金銭面でも融通するような医師が「仁術」の医師とは限りません。目の前の患者さんの立場に立った、損得抜きのふさわしい対処の仕方、感情にも左右されない芯の強さこそが「医は仁術」の本質だと私は思います。しかし、患者さんの為だからと言って、医師の医療を患者さんにごり押しする可能性もあるので注意が必要です。

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