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人生の岐路

人生のあらゆる局面で、人生の岐路と思われる瞬間があります。
しかし、その瞬間をよくよく考えると、私の場合、ネガティブ・シンキング(劣等感・挫折感)とポジティブ・シンキング(変身願望・変身)の繰り返しのような気がします。

親が私の将来を案じ、小学3年生で新宿区立戸塚第三小学校から越境して進学校の千代田区立永田町小学校へ転校しました。後の還暦の小学校の同窓会で知ったのですが、クラスメートは受験を意識した者が多く、学年での成績順位を知っている友人まで存在しました。その意識の差が、何となく私が感じた初めての劣等感であったのでしょう。
中学は、同じ学区内の進学校で有名な麹町中学校に進学しました。
残念ながら志望校の日比谷高校には入れず、慶應塾高校、早稲田高等学院にも落ち、滑り止めに受けた海城高校に入学しました。ここで2度目の大きな挫折感に浸りました。

Hensin志望校ではなかったのですが、勉強の出来るクラス(エリートクラス)に在籍していたので、自分の立ち位置に何とか満足していました。
高校1年の秋に足を骨折し期末試験を受けられず、そのせいか高校2年生の時に普通クラスに落とされてしまいました。3度目の劣等感と挫折感です。このままではいけないと思い、一念発起し、高校2年生中間テストに、自己啓発・自己催眠術・記憶術を駆使して全力で勉強に励み臨んだところ、何と学年一番になったのです。エリートクラスの生徒を抑えて普通クラスから学年一番の生徒が出たので学校は大騒ぎです。これが初めての変身願望の結果でした。そして高校2年生の時に普通クラスの生徒が学年成績優秀者として表彰されたのでした。

このまま成績を維持できるかなぁ・・・と思いきや、人生はまま成らぬものです、成績は始めは安定、その後低迷し、苦渋の浪人生活を2年間過ごしました。1年目は駿台予備校、2年目が代々木ゼミナールでした。これが長期間にわたる4度目の劣等感と挫折感の時期でした。
しかし、自分が白衣を着て病院の中を走り回っている姿を常に想像し勉強に励みました。2度目の変身願望です。その結果、何とか医学部へ入学できました。入学してみると、現役生も浪人生も優秀さにおいては、そんなに変わらず、受験の本質を疑問を感じたものでした。

大学に入学してから、今までの自分を払しょくしようと、運動音痴の私には縁のない運動部に思い切って入りました。これが3度目の変身でした。その後、淡々と学生生活を送り、ある時、その運動部クラブのキャプテンを引き受けることになりました。人前で話をしたり指導するのが苦手な私が、キャプテンを引き受けてしまったのです。しかも2年間もです。4度目の変身でした。
真面目な学園生活を送っていた5年生の時に、大学の学園祭の実行委員長に推薦されたのです。変身願望の強い私ですが、さすがに、これだけは固辞し、実行委員長と二人三脚の学園祭の会計で何とか許してもらいました。5度目の変身?です。私のせいで実行委員長になってしまったのが、後に大親友になった倉内洋文先生(故人)です。

大学1年の時から思いを寄せていた同級生の女子に、6年生の時に思い切って告白をしました。すると何と受け入れられたのです。6度目の変身願望の結果です。しかし、1年後の研修医の時に、つまらない理由であっさりと婚約を解消されてしまいました。こころに相当の痛手を受けた5度目の挫折感です。

卒業に際して、自分の進路、つまり何科を専攻するのかを決めなければならない時期が来ました。性格上、内科へ進むものと思っていましたが、先輩の引きもあり、泌尿器科に進むことになりました。責任の所在が露骨に分かる手術は、責任が重過ぎてどうしても好きにはなれないのに、何故か?手術を行う外科系の泌尿器科へ就職してしまったのです。7度目の変身です。

泌尿器科という仕事にも慣れ、独身貴族を謳歌し、このまま一生独身で良いと思っていたのですが、ある時、一人の女性との結婚を決意しました。結果的には8度目の変身になりました。私が妻子持つ、つまり家族が出来たため私の周囲の環境は変化して、社会的にも経済的にもさらに変身しなければならなくなりました。その結果、8年間勤めていた大学を退職し、個人の救急病院へ転職しました。これが9度目の変身です。

救急医、特に腹部救急を専門として、救急病院の様々な大学出身の医師から一人前の救急医になるまで、いろいろと指導を受けました。術後の人工呼吸器での管理法、肺切除の術式、病棟での気管切開の手ほどき、外傷性血気胸時のドレナージ法、頭部外傷の開頭法、胃切除などたくさんの症例を経験しました。お陰で、外科認定医と消化器外科認定医の資格を得ることが出来ました。10度目の変身です。

救急病院の同僚で東大出身の循環器の医師がいました。頭脳明晰で内科に関して要点を色々教えていただきました。その中で、超音波エコー検査の指導してもらった時に、彼の真髄に迫る一言が私の超音波エコー検査の能力を飛躍的に高めてくれました。ポジ画像を観るのではなく、ネガ画像を観るようにする心がけることでした。そのお陰で、その救急病院の腹部超音波エコー検査は全て私が行うようになり、スタッフも私を信頼してくれました。現在私が前立腺や膀胱の超音波エコー検査に関して誰にも負けないと自負している自信を持てたのも、この先生のお陰です。11度目の変身です。この東大出身の医師こそが、後の臓器移植ネットワークの設立に尽力し、初代理事長に就任した山川和夫先生(故人)です。

救急医療はスリルがあって楽しくやりがいがありました。ところが、勤めてる病院に不祥事が起きると噂され、早めに転職をするべきとアドバイスをしてくれた上司が存在し、その言葉に従い1年以上かけて開業医になる準備をしました。その結果、今の地で総合医療の開業医となったのです。これが12度目の変身です。ところが後日談があり、私にアドバイスした上司こそが、病院の不祥事の噂を流し、病院の院長を恐喝していた医師だったのです。

実際に開業し総合医として仕事をすると、整形外科の患者さんが多く来院するようになりました。多い日で150人以上にもなりました。整形外科医として診療を続けるうちに、治療に対して疑問が出るようになりました。患者さんの痛みの主訴に応じてレントゲンを撮り、薬や湿布薬を処方して終えるだけの治療が延々と続くのです。この治療システムは、一度教われば子どもでも習得できる簡単な方法です。専門知識を持った医師の行う仕事とは思えなくなったのです。痛がっている患者さんをこの手で即時に治せないもどかしさが続くのです。
大学病院に勤務時代に懇意にしていた外来婦長が定年退職後整体術師の世界に入り、その人の紹介で、整体術の先生の門下生になりました。現代医療とはかけ離れた世界ですが、気の流れコントロールする面白い医療でした。13度目の変身願望と変身です。この治療(施術)により、患者さんの痛みを即座に治すことができるようになりました。

診療を続けていくうちに、またまたワンパターン診療が嫌になり始めました。常に外に向かってアンテナを張りながら知識を広めていくうちに、整形外科医の講演会で仙骨神経ブロックの重要性を知りました。研修医の時代に麻酔科を回り、全身麻酔・脊椎麻酔・硬膜外神経ブロック・星状節神経ブロックを習得していましたが、仙骨神経ブロックは初めてで、独学で修得しました。仙骨神経ブロックについて学会で発表できるまでになりました。この仙骨神経ブロックによって診療の幅が広がり、泌尿器科の日帰り手術が可能になったのです。14度目の変身です。

地元の医師会で私が泌尿器科医であることが知れ渡るようになると、泌尿器科の患者さんが大勢来院するようになりました。泌尿器科専門医としての意識が高まる中、総合医から泌尿器科専門医へ次第にシフトするようになりました。15度目の変身です。

泌尿器科の患者さんが、こんなにも多いのかと思うようになり、次第に泌尿器科の医学啓蒙書を著してみたくなりました。すると、ある出版社から書いてみないかというお誘いがあったので、本を書きました。16度目の変身願望・変身です。

先の習得した仙骨神経ブロックの応用で、日帰り手術が出来る手応えを感じていました。入院施設のない外来専門クリニックで泌尿器科の内視鏡手術を実施するに当たっては、それなりの勇気が必要でしたが、自分を信じ始めました。17度目の変身です。

多くの患者さんの中に、慢性前立腺炎で悩む患者さんが紹介されて来ました。検査をするとたまたま排尿障害を見つけ、内視鏡手術をすることになりました。結果、その患者さんの慢性前立腺炎症状が消失したのです。慢性前立腺炎=排尿障害という事実を知り、慢性前立腺炎の患者さんの治療に内視鏡手術を世界で初めて実施するようになりました。18度目の変身です。

アンテナを張っていると、様々な医療に興味を持ちます。代替医療にも興味を持って勉強していると、代替医療の名医として私が紹介されました。それが縁で代替医療の著名な医師とも親交ができ、研究会を発足し、私も理事の一人として名を連ねることになりました。19度目の変身です。

Cocolog2033様々な病気に対して私の考えや意見を情報発信したくなりました。その結果として2004年からブログを始め、続けることを決意しました。20度目の変身です。ブログを続けた結果、2014年1月31日現在で、累積アクセス件数は2033万265件で、1日平均5770件にもなりました。継続は力なりです。

常にブログで情報発信をしていると、マスコミやテレビの人たちに知られるようになり、テレビや雑誌のインタビューを受けるようになりました。恥ずかしがらずに積極的に意見を言うことにしました。21度目の変身願望です。

ブログで自分の医療や考え方を発信していると、ある有名な泌尿器科医からインターネットなどのバーチャルな世界だけで自分の意見を発表しているのはおかしいとバッシングを受けました。私をそっとさせて欲しいと思ったのですが、性格上、頭にきたので、毎年1回~2回の学会発表を続けること決意し今日に至っています。22度目の変身願望の結果です。

学会発表のテーマを考えていると、面白いほどアイデアが出てきました。そのアイデアを元にパワーポイントでスライドや話題を作成している内に、製薬会社や研究会から講演会の依頼がたくさん来るようになりました。以前のネガティブな私であれば簡単にお断りしていたのですが、積極的に依頼を受け講師を断らないことにしました。23度目の変身願望の結果です。

開業医としては悪性疾患を扱わない事にしていましたが、ある時、世間の前立腺癌に対する考え方とは全く異なる新しい考え方を発案し、医師として信念に沿った診察や治療を始めました。24度目の変身です。

60歳を過ぎ、自分の体力や能力(脳力)に衰えを感じ始めました。そろそろ年齢を考え、体力を使う手術を止める時期を考えています。手術をしない診療スタイルを考える25度目のポジティブな変身願望です。

Yosinogawa小学生の頃より進学校から受験受験で勝ち抜き、医師になり開業医になり、それなりの社会的地位を得た私の人生を、他人から見れば順風満帆に思われるのですが、自分の人生をざっと振り返るだけでも、何回もの劣等感と挫折感、何回もの変身願望と変身を繰り返しています。まるで川の濁流のようです。
現実の川の流れは、幾つもの支流が集まり本流になって海へ流れて行くのですが、人生の川の流れは本流から幾つもの支流に分かれ、最終的には海へ注いでいるのです。支流の分岐点では渦ができ、まるで劣等感と挫折感がグルグルと回転しているようです。そして意を決したようにどちらかに流れて行くのです。流れの選択は本人次第です。

私のココロの奥底には、常に劣等感があるのでしょう。その劣等感から抜け出すために、変身願望が生まれ、その結果として変身していくのです。
初めの劣等感は小学生の頃です。それが高校受験の失敗で決定的になり、高校2年生の普通クラスへの格下げがダメ押しでした。しかし、そのダメ押しから逃れようと一念発起して勉強したのが変身願望の達成という成功体験に繋がるのでした。この成功体験がなければ、医師にもなれなかっただろうし、開業医となって現在までに3万人以上の患者さんにお会いできることもなかったでしょう。
劣等感の存在は、私の原動力かも知れません。小学生の劣等感も高校受験の失敗も普通クラスへの格下げも必要悪だったのです。足の骨折も、頑張れば学年1番になれる程度の高校への入学も、今の私にとっては必要な出来事だったのです。コメントで記載があるように、中国の諺にある『塞翁が馬』とは、私の人生とはまったく無縁と思っていましたが、自分の人生を振り返り考察してみると、淡々と何事もなく送っていた私の人生にも当てはまると感心しました。人生の本質をよく表しています。

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コメント

人生の岐路は運命でしょうか。
高橋先生の日帰り手術が受けられるのはいつまででしょうか?
それまでに受けたいです
【回答】
70歳までには止めるでしょう。
私が生きていればのお話ですが。

投稿: 慢性前立腺炎 | 2014/01/25 12:59

高橋先生こんにちは!
人生は塞翁が馬、本当に一筋縄ではいきませんね。同じヒト科に生きる者として(先生と唯一同じくする項目…それは生物学的分類、人類)強く共感致します。
先生はけれど、赤ひげ先生を地で行く人生で、こうして我々患者を救ってくれています。先生の診断なしにまともな人生は送れていません。
私は、今の先生を形作った、様々な出来事に何だか感謝したくなりました。壁を知らないままの高橋先生は、今頃普通のエリート医師としてテレビによく出たりして、手の届かないレベルで活躍されていたかな…?
先生のこれから、更なるご活躍を期待しております!

投稿: にしべ | 2014/01/26 11:53

いやいや高橋先生には長生きしてもらいたいですよ! 慢性前立腺炎 間質性膀胱炎患者には高橋先生の独自の保存的治療と世界で唯一の内視鏡手術は唯一の頼みですから。
くれぐれも健康をよろしくお願いします

投稿: 慢性前立腺炎 | 2014/01/27 14:03

お世話になります、先生の変身願望がある限り七転び八起
の記事みたいにその時その時の変身した先生でやってください!先生のお蔭で針生検せずに助かられた患者の方は数知れないと思います、慢性前立腺炎・前立腺がんに対する考え方、治療方法を独自に唱えられ実践された功績は大きいです、ゆるりと~なが~く先生頑張ってください

投稿: けんじ | 2014/01/28 14:02

この国この時代に高橋先生に巡り合えた奇跡を感じずにはいられません(病気にはなりたくなかったですが)。
先生は何故医師になろうと思ったのですか?
【回答】
私は建築、特に設計の方へ進みたかったのですが、両親の「手に職を」という言葉で医師になりました。
ある意味、変身です。
母が歯科医だったので、私は医科へ進みました。
他愛もない理由です。

投稿: ぽん | 2014/02/06 11:02

建築家としての先生…きっと独創的な街づくりなどをなさっていたのでしょうね。

医師を天職としてご活躍し、多くの人を救っている先生のお姿は僭越ながらお母様はもちろん天国のお父様もきっと大きな誇りに思っているに違いないですね。

投稿: ぽん | 2014/02/07 19:57

高橋先生いつもお世話になります。31356です。

ネットで先生の治療を批判する記事やコメントを見かけます。

さすがの高橋先生も御自身の治療方法に時には自信を失いかける事が有るかもしれません。
【回答】
そんなことはありません。
私はただの人間です。
神でもなければ魔法使いでもありません。
以前から言っているように、私の治療で100%の人が治る訳ではありません。
1000人治療して95%効果があったとして50人は全く効果がないということになります。
それは仕方がないことです。
現在患者さん通し番号が31800を超えていますから、少なくても1590人は私の治療効果のない人です。」

先日ある事に気付きました。
私は小学生高学年位から胃腸が弱くまた健康診断ではいつもアレルギー性鼻炎と書かかれてました。
社会人となり一人暮らしを始めてから乾燥肌でフケ性で背中は大概いつも痒く陰毛の当りも結構痒かったりしました。

そして先生の治療を始めフケや背中の痒み等が少しおさまって来ました。
逆に胃腸は何故かその逆で、関連通がきつかった少し前は下痢が何故か治ってましたが、関連通が治って来たらまた以前の下痢気味が始まりました。いわゆる未病のに状態に近づいてる感覚です。
結局、小学生からあった痒みや鼻炎は排尿障害から来ていて、ついこの間ステージが上がり手足のしびれや鼠径部、会陰部の鈍痛へと進んだ、と推測しました。

自分の体を通し、高橋先生の理論は間違ってないと確信している自分がいます。
【回答】
貴方には私の理論や治療の相性が良かったということです。」

願わくばいつまでも現役で執刀して頂きたいと思います。私のDNAを受け継いだ子供たちも居るんです。
その時はその時ですかね?

投稿: 博 | 2014/06/07 22:52

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