今生きているのは奇跡の連続
私が幼少のころ肺炎にかかって大学病院に入院しました。その当時、抗生剤は高価で保険が利かなかったそうで、両親は貯金をはたいて治療してもらったようです。その高価な抗生剤がなければ、私はこの世にいません。
私が保育園に通っていたころ、母は職業婦人(歯科開業医)で、日中は若いお手伝いさんが私の相手をしてくれました。台所を背にしたお手伝いさんが「思いっきりぶつかって来てごらん!」という言葉に反応して、お手伝いさんに向かって突進しました。私が到達する寸前に、彼女は私を避けたのです。私はそのまま台所に激突しました。私の額はタイルの角でパックリ割れ大出血です。仕事をしていた母は奥の私の泣き声に驚き、すぐさま駆け寄りました。私をおんぶして救急病院に駆け込みました。ベッドに抑えつけられ、目の前にガーゼをかぶせられ額を縫合せれた光景を今でも鮮明に思い出されます。その後、意識障害にはならなかったので、脳出血は免れたのでしょう。
昔の電柱は今のようなコンクリート製ではなく一本の木で出来ていました。運動神経が鈍い割には、その木の電柱によじ登って高い所から下界を観たくなります。自宅近くの古い木の電柱に登り、ひとしきり景色を眺め満足し、スルスルというイメージで降りました。すると両方の前腕が痛みます。見ると前腕の皮下に電柱の古い木のササクレがたくさん入っているではありませんか!自宅の母の仕事場に入り、ピンセットで一つ一つ木くずを取り除き自分で消毒しました。もちろん母親には内緒です。抗生剤も飲みませんでしたが、化膿もせずに傷跡も残っていません。
私は運動音痴です。小学生の頃、体育の授業で跳び箱を飛び越えてマットの上で前転する体操がありました。私は跳び箱が苦手でしたが、意を決して跳び箱を飛び越えました。跳ぶことに集中するあまり、飛び越えた時点で手が出ずに頭からマットに直撃しました。そうです、空中に富んだ身体の全体重を頭で受け着地したのです。「グギッ」という大きな音が体育館に響きました。今から思えば首の骨が折れてもおかしくはない状況でしたが、首が痛かっただけで異常を認めませんでした。しかし、その後、首が鳴るようにはなりましたが・・・。
小学校には必ず「いじめっ子」がいます。私の学校にもいました。その「いじめっ子」尾崎君が私の友人鈴木君をいじめている現場を偶然に学校の下駄箱で観ました。何故いじめられているのか分かりませんでしたが、力は弱いのに正義感の強い私は、止めに入りました。すると、「何だ生意気だ!チン蹴りをするぞ!」と言ったことばに、「やれるものならやってみろ!」と私は股を開いたのです。尾崎君が私の股間に思いっ切り蹴りを入れました。「フン!何でもない!」と私は言い、尾崎君は悔しそうな顔をしてその場を去りました。・・・自宅に帰り夜入浴中に自分の股間を見たら、陰茎・陰嚢が真黒です。今思えば皮下出血です。その後結婚した私には子どもが二人いますから、睾丸は無事だったようです。泌尿器科医になったのも因縁でしょう。
高校1年生の秋、体育の授業中に走り高跳びをしていました。何とかバーを飛び越えようと思い、力いっぱい踏み込んだら、訳も分からず砂場に崩れ込んでしましました。動転しながらも踏み切りの軸足である左足を見たら、曲げた左ひざの下の皮膚が三角形に突出しています。誰かが「お前のヒザはいつもこうなのか?」と質問するではありませんか。『そんなバカな!』と思いつつ、そのまま救急病院に搬送されました。診断結果は脛骨骨折でした。大腿四頭筋付着部の脛骨粗面がカラスの口のようにパックリと裂けた珍しい骨折でした。ボルトで固定して手術は無事に終了しました。その執刀医が若き日の外科医の牛込先生です。牛込先生はその後、慈恵医大の病理学の主任教授になり、さらに国際病理学会の会長に選出された人物です。外科手術がない時代であれば、私は健常人と同じには歩けなかったでしょう。
翌年の夏に骨折で固定したボルトを抜く手術の為に同じ外科病院に入院しました。その入院中にボヤ騒ぎがありました。私が気が付いたのでボヤ程度で済んだ事件でした。気が付くのが遅ければ、ギブスをしていて思うように動けない私は、逃げ遅れてあの世に行っていたでしょう。
夏の蓼科に滞在中、大型スーパーで買い出しに来ていました。広大な駐車場を歩いていると、私の直前を軽乗用車が左折し横切りました。その時、自動車の内輪差で後輪のタイヤが私の右足を踏み付けながら走り去りました。内視鏡手術の時に電気メスのペダルスイッチを多用する大事な右足を引いて行ったのです。しかし、不思議と怪我はありませんでした。今でも手術は出来ます。
私の友人が亡くなった丁度その日に、私はインフルエンザにかかりました。その翌日から右半身が麻痺して『脳梗塞か?』と思いましたが、麻痺は数カ月かかって徐々に改善し、現在、右手の薬指と小指だけが痺れが残りました。脳梗塞であれば引退しなければならなかったでしょうが、今でも何とか仕事はしています。
4年前頃から視力が今ひとつで、眼鏡をいくら調節してもピントが合いません。3年前に眼科を受診したら白内障という診断です。両目の白内障の手術をしたら、今度は網膜黄斑変性症になり、何回も目玉に注射をされました。しかし、なかなか良くならないので、左目は硝子体除去手術を受けました。さらに右目の眼圧が上がり網膜の血流が低下し、視野狭窄を来しました。その結果、緑内障手術を平成25年4月に行いました。やれやれと安心していたら、11月に突然左目が見えにくくなりました。網膜動脈の血流低下が原因の可能性が指摘されたので、血流改善剤で何とか軽快しました。
ある朝、顔を洗っている際に、鏡で自分の顔を見ると、影が薄く見えたのです。『命があと半年?』とビックリしました。急いで採血したら、腎機能が信じられないほど低下しているのです。早速、同級生の教授に連絡したら、急いで来い!と言われて、翌日、大学病院に急行しました。診断の結果、慢性腎不全で翌日緊急入院しました。
その後、いろいろあり、腹膜透析の体になってしまいました。毎日3回〜4回の透析液の交換して、何とか生活していました。しかし、だんだん体の調子が悪くなりました。
私ひとりの人生であっても、前述のように数々の肉体的試練がありました。精神的な試練(転校生・劣等感・受験・浪人・恋愛・失恋・結婚・教育・就職・税務署・相続・借金問題等々)も含めれば、今こうして生きていることが奇跡の連続の結果であると思えます。だから今生きていることに感謝します。皆さんはいかがですか?
人生楽ありゃ苦もあるさ
涙の後には虹も出る
歩いてゆくんだしっかりと
自分の道をふみしめて
(時代劇 水戸黄門のテーマソングより)
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コメント
先生お世話になります、本当に先生に巡り合い相談やこの記事を読ませていただく事が生きてる事に感謝です!!先生に幼少からこのような人生いろいろ(島倉さんの歌)があったなんてビックリ!はっきり言って大あり過ぎですね!次回に転校生・劣等感・受験・浪人・失恋・税務署・・なども一話ごとぜひおいおいと聞きたいです!そのいろいろの積み重ねが今の先生の人生そのものだと思います、それにしても幼少のころからの病名・氏名・過程の記憶を鮮明に覚えてられるのにはビックリ感銘しております、やはり先生の経験から見てたくさんのいろいろを経験される事が人生にはプラスと感じました。
投稿: けんじ | 2013/11/28 12:42
先生その後、体調はいかがでしょうか?先生は本当に様々な試練を乗り越えて来られのですね…、凄いですね!!私事で恐縮ですが、私なぞ最大の肉体的試練といえば今現在苦しんでる排尿障害のみであり、精神的試練はほぼ無いに等しい平々凡々とした人生……。
改めて先生を尊敬致します!!その一言に尽きます…。
投稿: にしべ | 2013/11/29 11:58
先生
慢性前立腺炎で苦しんでいるのも人生の運命でしょうか?
【回答】
運命ではないでしょう。』
試練でしょうか?
【回答】
偶然に遭遇する試練と思うべきでしょう。』
人間として生まれてきたこと自体奇跡 しかし人生何故にこんなに苦しいんでしょうか?
【回答】
喜びも苦しみも等しく存在します。
同じ疑問は、お釈迦さまも考えています。
でも結論は出せないでいます。
投稿: | 2013/11/29 18:25