学校医としての投稿
私は地元中学の学校医です。頼まれて学校医機関誌に投稿することがあります。
今回のお題は「遊び」でした。
「効率の光と陰」 〇〇〇〇中学学校医 高橋知宏
現代のエリートと呼ばれる人たちは、何でもかんでも効率的に仕事をするのが常識で、極力無駄を省くことが正しいことだと考えています。また、毎年生まれるエリートの卵たちである受験生もそのように教育されてきました。勉強でも仕事でも成績や実績を上げるためには、無駄を排除し、タイムスケジュールの完全遂行で効率を上げなければ一流にはなれないと思っています。そのように育てられ完成品となった人たちが指導・指揮しているこの国の現状は、はたして本当に一流の体をなしているのでしょうか?
【ブログより】
2003年11月の新聞記事に次のような興味ある記事が掲載されました。
「秀才ばかりじゃ生産性低下!?アリのエサ集め研究結果」秀才ばかりの集団では、組織の生産性は低下する――。大阪府立大大学院工学研究科の西森拓・助教授らがアリの行動をコンピューターで再現したら、そんな結果が出た。エサ集めの下手なアリが集団内にいた方が、優秀なアリだけよりもたくさんエサが集まった。札幌市で開かれた日本動物行動学会で発表した。アリはエサを見つけると、巣への帰り道に目印になる物質(フェロモン)を塗りつけ、他のアリはこの目印を触角でたどってエサ場に向かう。西森さんらは、目印に敏感なアリと感度が悪いアリの行動をコンピューターで再現。すると、感度の悪いアリがいる集団の方が、エサを効率よく集めた。優秀なアリは目印を忠実に追うため、エサを効率よく集めるが、目印に固執するあまり、新たなエサは発見しにくかった。一方、鈍いアリはうろうろすることで、エサを発見するチャンスが高まるらしい。ただ、実際にエサを集めるのはほとんどが秀才アリだった。西森さんは「特に状況の変化が著しいときには、人間でも手堅い秀才ばかりでは駄目なのかもしれない」と話している。(読売新聞)[2003年11月1日]
自然界が教えてくれた、この事実をひとたび人間社会に当てはめ考えてみると、優秀な人材だけでは会社の生産性・実績は最大にはなりません。逆に生産性・実績・効率は落ちるのです。熾烈な競争を勝ち抜いてきた優秀な人材だけを登用する国や社会の生産性・実績は、確かに「優秀」と評価するには程遠いのが現実です。
優秀な人材が思考できるのは、人間の域を超えることはできません。つまり人間として想像できる、本当に限られた常識的な範囲のことだけです。しかし、優秀とはいえない人材は、挫折を知り、劣等感を知り、遊びを知り、無駄と思われる様々な経験を積みます。しかしその多くの無駄が、その人のキャパシティ(容量≒度量)を大きくしてくれるのです。言い換えれば、その人の中に小宇宙が形成され、常識を超えたあらゆる智恵を包含している可能性があるのです。すべてにおいて極端は最良の策ではありません。
お釈迦様や孔子様の唱えた「中庸(ちゅうよう)」という概念を想起します。極端に走らない、固執しない流動的なものの見方・考え方をいいます。現代主流の無駄のない、遊びのない、余裕のない、ギリギリの計画・行動・思考・集団は絶対に避けるべきです。無駄、大いに結構! 優秀な人もそうでない人も、仕事も勉強も遊びも、それぞれが無くてはならないこの世の大切な存在なのです。
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