孫の手
「学問のすすめ」「慶応義塾の創立者」で有名な福沢諭吉翁の詩で 次の漢詩があります。
無限輸贏天又人
医師休道自然臣
離婁明視麻姑手
手段達辺唯是真
現代訳にすると、
医学というものは自然と人間との限りない知恵くらべの記録のようなものである。
医師よ、自分たちは自然の家来に過ぎないなどと言うてくれるな。
離婁のようなすばらしい眼力と麻姑のような行きとどいた手をもって、
あらゆる手段を尽くしてこそ初めてそこに医業の真諦が生まれるのである。
という内容です。
大先生(おおせんせい、慶応義塾塾生の福沢諭吉への尊称)の言葉で医師の私も反省させられます。
とかく医師は、病気に対して己の無力さを痛感します。医師は己が治すのではなく、患者さん自らがご自分の力で治すものと心得ています。(俺が治したんだ!と豪語する大馬鹿な医師もいますが)
ですから医師がどんなに頑張っても患者さんに生命力がなければ治せません。
でも医師を頼りにしている患者さんにとっては医師のそういう割り切った姿勢や態度は、言いようのない怠惰に見えてしまうのかも知れません。
恐らくは福沢諭吉大先生もご自分あるいは身近に病気に苦しむ人がいて、治療にあたる医師の姿勢に対してこの漢詩を詠う気持ちになったのかも知れません。
「医師よ!無力と分かっていても全力を尽くし治療にあたれ!その姿は患者さんの生命力をも呼び覚ます!」という意味にも取れる言葉です。
【参考】 「贈医」(医に贈る)と題する七言絶句より
【写真】 37歳の若き福沢諭吉大先生
【離婁(リロウ)】 伝説上の人物。視力が非常にすぐれ、黄帝が珠を失った時、命を受けてこれを探した。離婁は百歩はなれても獣の毛の先をよく見分けたという。『孟子』の章句名となっています。
【麻姑(マコ)】 仙人。漢の孝桓帝の時代、王遠とともに蔡経の家に降臨した。宴が終わると天に昇っていったという。手の爪が猛禽の鳥のように長くとがっていて神業の如く器用であった。「孫の手」は本来「麻姑の手」のような爪で背中の痒い所を器用に掻けるたら気持ちが良いと思った人間の逸話からその名称が付けられたと云われています。
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