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奇異性尿失禁 Paradoxical incontinence

奇異性尿失禁(きいせい・にょうしっきん)という言葉をご存知ですか?別名、溢流性尿失禁(いつりゅうせい・にょうしっきん)ともいいます。
教科書的には次のような記載になっています。

「溢流性尿失禁 overflow incontinence
尿閉になり、最大膀胱容量と残尿量が同量となり、有効膀胱容量がゼロになって、常時尿が尿道より漏れる状態である。
膀胱内に尿を保持できるが、排尿できずに尿が漏れ出る状態であり、尿を保持できない尿失禁とは異なり、奇異性尿失禁 paradoxical incontinenceともいわれる。
骨盤内末梢神経損傷による神経因性膀胱、高度な前立腺肥大症により慢性尿閉となった場合などが原因である。」

1回読んで理解できたなら、貴方は泌尿器科専門医です。2回読んで理解できたなら、貴方は一般の医師クラスの頭脳です。何回読んでも理解できなければ、貴方は常識人で、本当の意味での理路整然とした科学的な論理的な頭脳をお持ちの方です。

教科書でも専門書でも、この「奇異性尿失禁」については、これ以上の詳細な解説はありません。「オシッコが出ないのにオシッコが漏れてしまう」現象をこの程度の解説で理解しろという方がどだい無理な話です。
神経因性膀胱や前立腺肥大症などに高度な排尿障害があるのは理解できます。排尿障害で出口が開かないのに、同じ出口からオシッコが通過して漏れる出るのです。まるでワープ航法です。「どこでもドア~」があるようです。そこには何か手品のような仕掛けがきっとあるのです。その仕掛けが分からないままに、現実にそのような現象が起きるからと、医師がまる覚えしてしまったところに、臨床医学のいい加減さ・非科学性があるのです。

なぜ突然、このような話をしたのかというと、今まで疑問であった「奇異性尿失禁」が、今日初めて、氷解したのです。ある患者さんの来院を機会に・・・。

この患者さんは66歳男性です。
3年も前から地元の市立病院で、「前立腺肥大症+慢性前立腺炎」の診断で治療を受けています。
症状は、1日10回の頻尿と寝てから3回の夜間頻尿です。
さらに尿失禁があります。トイレが間に合わなくて漏らしてしまう切迫性尿失禁と、無意識に漏れてしまう問題の奇異性尿失禁があります。
主治医は、前立腺肥大症+慢性前立腺炎の診断で、アビショット、ポラキス、八味地黄丸、ベシケアなどの薬を次々に換えて処方しますが、症状の改善をみません。知人が私のクリニックで治療して経過が良かったので、紹介されて本日(5月27日)来院されました。
Nb22123m66診察台に寝ていただいて腹部を観察すると、右腹直筋部が盛上がっています。やせた男性ですから目立つのです。オシッコを特に我慢している訳でもありません。腹壁ヘルニア?と思ったほどです。

Nb22123m665超音波エコー検査を行なったのが、右の画像です。
黒い部分が尿です。白いラインが膀胱壁です。膀胱壁にキノコのような形態の物ががいくつも確認できます。何だと思われますか?

Nb22123m666正体は「肉柱」です。
強い排尿障害の際に確認される膀胱平滑筋の肥大所見です。この患者さんの3D画像では、ご覧のように縦横に走る肉柱の走行が明確に確認できます。肉柱を確認した時には、強い排尿障害があると判断しなければなりません。

Nb22123m663尿流量測定ウロフロメトリー検査を行なったのですが、16mlしか排尿できません。
患者さんは自覚していない慢性的な尿閉状態です。カテーテルを挿入して採尿したところ全部で670ml!です。

Nb22123m662結果、お腹はペッタンコです。腹壁ヘルニアではなかったのです。
この患者さんは、前立腺肥大症あるいは神経因性膀胱の慢性尿閉と診断されるのが、普通であれば妥当な診断でしょう。
ここまでは、プロローグです。
Nb22123m664さて、奇異性尿失禁について話を戻しましょう。先ほどの肉柱を確認した2D画像を前立腺部に視点を移動したのが右の画像です。
左側が膀胱・前立腺を側面から見た状態、右側が膀胱・前立腺を正面から見た状態の画像です。
膀胱と接している部分が「くさび形(側面像ではバナナ型・正面像ではV字)」に開いています。ちょうど前立腺部尿道です。排尿障害による尿閉状態であるのに膀胱出口が開いているのです。つまり膀胱括約筋が働いていない状態ですから、尿を保持しているのは外尿道括約筋だけになります。
尿の保持は膀胱括約筋(内尿道括約筋)と外尿道括約筋の2つの筋肉が一丸となって頑張っていますから、1つの筋肉だけでは力は50%~20%に激減するので、尿失禁があっても不思議ではありません。
Nb22123m669右の図を使って説明しましょう。左と中央の図は正常な状態を示します。
一番左の図は尿がそれ程たまっていない場合の下部尿路の状態です。膀胱括約筋と尿道括約筋が協力して尿を保持しています。中央の図は尿がかなりたまった場合の下部尿路の状態です。尿道活躍筋はそのままですが、膀胱括約筋は自律神経反射でさらに収縮して閉鎖力を強くします。また膀胱内圧の上昇が膀胱括約筋を圧迫して閉鎖力を補助してくれます。
ところが、基礎疾患として前立腺肥大症などがあると(右の図)、膀胱括約筋は膀胱出口の周辺に追いやられ完全に伸び切っています。そして膀胱壁と一体化していて、尿の貯留によって引き伸ばされた膀胱壁によって膀胱括約筋も開く方向に牽引されます。
前立腺が正常であれば、この程度で前立腺部尿道は開きませんが、前立腺肥大症で硬くなっていると、まるで無機質構造物のように他動的に前立腺部尿道は開いてしまいます(2D画像を参照)。
前立腺が大きい場合や膀胱容量が多い場合には、膀胱と前立腺が一体になって本来の解剖学的位置よりも下方に下がります。すると尿道括約筋の働く最適なポジションではなくなるので閉まりが悪くなります。
結果、膀胱括約筋と尿道括約筋が働くことができなくなるので尿失禁になります。
Nb22123m6610カテーテルを挿入し尿を400ml抜いた後の2D画像です。
270ml膀胱に尿がたまっている状態です。先ほどの2D画像と比較して、前立腺部尿道が閉じているのが確認できます。この患者さんは300ml以下では膀胱出口は開かないことが分かりました。
前立腺の大きさは21ccで正常の大きさ(20cc~25cc)で、一般的な前立腺肥大症の大きさではありません。
Nb22123m667この状態で3D画像を見てみると左の所見になります。膀胱出口がいびつな形です。
正常な場合には膀胱出口は正円ですから形態異常になります。
Nb22123m668同じく3D画像を反対方向から観察したのが左の所見です。
膀胱出口が「ひょうたん」のように変形し、その周囲の輪郭が硬く見えます。いわゆる「膀胱頚部硬化症」です。

さて、これから本題です。
この患者さんは前立腺部尿道が開いているにもかかわらず、16mlしか排尿できませんでした。立位で排尿する場合は、前立腺部尿道はもっと開大していますから、さらに排尿しやすい筈です。「漏れるのに、出そうと思うと出ない」つまりは「奇異性尿失禁」の状態です。
Nb22123m6611_3左の図を使って説明しましょう。
左側の図は、膀胱いっぱいに尿がたまった状態で尿が漏れる仕組みを示した図です。
右側の図は、自分の力で排尿しようとしても排尿できない仕組みを示した図です。
排尿しようとすると、尿道括約筋の作用によって前立腺の先端部を下方に下げながら開こうとする力がかかります。その力は膀胱括約筋も引張り前立腺全体が下方に下がります。前立腺はもともと解剖学的に小骨盤腔の非常に狭い空間に存在します。前立腺は下降するとさらに狭い空間に押しやられ、前立腺全体に外側から強力な圧力がかかり、膀胱出口は閉じてしまうのです。この状態になると前立腺の大きさはほとんど無関係です。前立腺の位置がポイントになるからです。この患者さんの前立腺の大きさは21ccと小さい方でした。

ここまで解説して初めて「奇異性尿失禁」が理解できたことになります。
「溢流性尿失禁 overflow incontinence
尿閉になり、最大膀胱容量と残尿量が同量となり、・・・奇異性尿失禁 paradoxical incontinenceともいわれる。骨盤内末梢神経損傷による神経因性膀胱、高度な・・・原因である。」
という先の解説が、言語明瞭意味不明の解説であったかをあらためて知ることになるのです。

さて、今回の患者さんは、これからどのようにして治療すればよいのでしょう。
まずは尿路確保のために、カテーテルを留置しました。カテーテル排出口にキャップを装着して、定期的に(2時間~3時間毎に)排尿してもらうようにしました。常に700ml近い残尿があったので、膀胱そのものが疲弊しています。尿路を確保することにより膀胱の機能をいったん回復させるのです。
残尿が非常に多い状態でアビショット(α-ブロッカー)を服用しても効きません。カテーテル留置で慢性的な残尿をなくすことで、α-ブロッカーが効くようになります。3週間後にはカテーテルを抜き自尿できるかどうかを判断します。
それでも改善しないのであれば、膀胱頚部の硬化部を切除・切開します。


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